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| 十七条憲法 | ||
| 第二条 | ||
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| 現代語訳 三宝を篤く敬え。 三宝とは仏・法・僧である。 この三宝はすべての人が最期の最期に行き着くところであり、国家があるなら必ず根本とするものである。 何時の世にも誰でもこの三宝を敬わないことがあろうか。 そもそも極悪人は少ないので、ちゃんと教えればちゃんと三宝に従うものである。 三宝に帰依せずにひねくれ曲がった者や悪事を犯そうとする者をどのように糺すのであろうか。 釈 一条と二条は切って切り離せない関係にある。 一条にある「真理を知る者は稀である」の「真理」とはまさしく二条の「三宝」に他ならない。 この「三宝」へ帰依してこそ初めて「和睦」が実現するのである。 国家とは、土地を得て人が集まり、法(律)を定めたところに存在する。 逆に言えば、土地があり、そこに人々が住み、その人々で法律を定めれば、それはすなわち国家である。 国家とは人々の集団の最大単位である。 また最小単位は「家族」である。 あるいは会社という組織においても、その所有地があり、そこにその会社員が存在し、その会社の規則があれば、それはそれで1つの「国家」と言える条件が揃う。 第一条にある「君父」の「君」とは集団生活における最大単位の主である「国主」であり、「父」とはその最小単位の主である「家主」のことである。 会社においてはその主は「社長」にあたろう。 すなわち最小単位である「家族」から始まり、会社や様々な組織を通し、その最大単位である「国家」に至るまで、上の者と下の者は存在する。 この「法」の根本に「三宝」を置かなければならない。 逆にいえば、「三宝」を根本として、その上に法律が存在するものである。 この「三宝」を根本として議論するのであれば、自然と道理に適い、何事もなさないことはない。 主君や親など上に立つ者に対する反発心を抱くような者や隣人との争いを犯すような者も、最初から悪人であったわけではない。 このような者を正すのは「三宝」に依るしかない。 また、三宝に依るならば、たとえ悪人であろうとも、それが活かされてくるものである。 生命の根本の法を知るとき、すなわち三宝に帰依するとき、正と邪が定まる。 何が正で何が邪であるかがはっきり立て分けができるようになったとき、それを基として各々自由を得る。 そのとき「和」が実現するのである。 聖徳太子が釈尊の弟子だったという立場であればこそ顕わされる一条である。 |
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