「お金」について知ってほしいこと
誰でもお金は欲しいと思っている。
「あればあるだけ欲しい」という人もいれば、「生活できるだけあればよく、必要以上はいらない」という人もいよう。
いずれにしても、お金は現在社会においては生活に必要不可欠なものである。

この「生活に必要不可欠」であるはずの「お金」について、その本質をほとんどの人が知らないのである。
企業の社長にしても、経理部長にしても、或は家計を握る主婦(これは主婦に限らないが・・・)も、誰もその本質を知らない。

今回は、そのお金の本質について、つれずれなるままに書いてみたい。

なぜ今回、お金の本質について書いてみようと思ったのかというと、あまりにも「お金」のために何かを犠牲にして失うものが多すぎるのではないかと感じたからである。
お金のために無理して体を壊し、終いには過労死なんてこともある。
または仕事仕事で家庭を壊してしまうこともある。
或はお金のために人を傷つけ、遂には人の命を奪うことさえある。
借金に追われて終には自分の命を・・・なんていう悲劇もある。
あまりにも馬鹿馬鹿しい。

お金に振り回されすぎて、人生を棒に振ってしまう人が多すぎると感じる。

ここに、このサイトを見て少しでもお金の本質に気づき、お金に振り回されすぎず、本当の意味での「豊かさ」を追い求めてくれればいいと思う。
「お金」という概念が生まれるまで
人が生活していく為には、生活するための必要最低限の物、つまり「衣食住」を満たす必要がある。

人類史の最初期の家族単位や親類縁者などに限った少人数の集団で生活しているとき・・・
「食」については、みんなで動物や魚介類を狩猟して、みんなで木の実などを採取し、
「衣」については、狩猟した獲物の皮をみんなで分け合って着て、
「住」については、みんなで洞穴に住んだり、簡単な住居を立てて住んでいた。
その時は、物々交換さえも存在していなかったのであった。
物々交換する必要がなかったからである。

やがて気候変動などによる環境の変化があり、「獲物がいない」「魚が獲れない」「木の実が成らない」という非常事態が発生した。

いつの時代でもそうだが、何も困っていない、何も不便がない時というのは、人は得てして変化を求めないものである。
困ったときや不便を感じたときにこそ、初めて新しいアイディアが生まれるものである。

座して死すわけにもいかない彼らがとった手段は、少しでも多くの獲物がいる場所、少しでも多くの木の実が獲れる場所への「移住」である。
そのような厳しい環境に置かれた集団は一つだけではない。
いくつもの集団が同時に同じ環境におかれたのである。

いくつもの小さな集団がより多くの獲物、より多くの木の実を求めて移住を始めた。
その時、いくつもの小さな集団が出会う。
あるいは元々その移住先に住んでいた小さな集団に出会う。
快く迎えた集団もあれば、食料を奪い合う争いもあったであろう。
そうこうしているうちに小さな集団同士は徐々に大きくなって、大きな集団となっていった。

大きな集団となると、全員で一斉に狩猟や採取をする必要がなくなってくる。
すると今度はそこに「分業」という概念が生まれてくる。
狩猟に行く者、採取する者、調理する者、調理に使う土器を作る者、狩猟に使う武器を作る者、家を建てる者、毛皮を衣類に加工する者、或は子育てする者などなど。

このような分業が行われるようになると、いわゆるその道の「プロフェッショナル」が生まれてくる。
確実に獲物を仕留める者、たくさん木の実を採取できる者、おいしい料理を作る者、丈夫な土器を作る者、より尖った武器を作る者、住みやすい家を作る者、温かくて動きやすい衣類を作る者、健康で元気な子供を育てることができる者等々。
このように少しずつ技術が向上してくると、生活に多少の余裕が生まれ、やがて星を眺めたり、音楽や壁画にみられるような絵画などの「文化」が誕生してきた。

そして次に、異常事態が発生しても移住しなくて済むような「安定」を求めるようになる。
こうして誕生したのが「農耕」である。

ここではまだ「お金」の概念はない。

衣食住が満たされて集団が安定してくると、その集団のまとめ役が必要となってくる。
腕力のある者、知恵のある者、統率力のある者など、いずれにしてもリーダー的存在が誕生する。
この者が後に「王」と呼ばれるようになる。

こうして安定した大きな集団がいくつも誕生してきた。
しかしながら様々な環境の変化により、安定した大きな集団であろうとも、その存在・存続を脅かすようなことが起きてくる。
すると、小さな集団の時にはできた「移住」という手段が、大きな集団になるとそれができなくなる。
移住できなくなる代わりに何をしたのかというと、「生活圏の拡大」である。
今でいう「領土拡大」である。

領土を拡大していくとどうなるか?
必ず隣の「大きな集団」と衝突するのである。
大きな集団同士がぶつかったとき、どのような解決手段をとるのか?
話し合いによって仲良く融和するか、或は戦争するかのどちらかである。
いずれにしても大きな集団同士が合併して、さらに大きな集団となっていくのである。

小さな集団だった時は、生活圏内の移動距離も大したことはなかった。
大きな集団だった時も、生活圏内の移動距離はそこまで長くなかった。
しかしさらに大きな集団となると、領土が広くなりすぎてお互いに行き来することが困難となってくる。
お互いが遠いということは、狩猟する動物相も、取れる木の実の植物相も、農耕によって得られる作物相も変わってくる。

この時初めて、そちらにあってこちらに無い物、こちらにあってそちらに無い物を交換するという「物々交換」という概念が生まれたのであった。

このようにさらに大きな集団がさらに広い領土で生活するようになると、今までは移住や領土拡大していかなければならないような環境の変化があったとしても、お互いに補い合って環境の変化を乗り越えることができるようになる。
そうしてさらに安定するようになると、小さな集団だった時のリーダーである「長」と、大きな集団のリーダーである「王」と、さらに大きな集団のリーダーである「大王」という存在が誕生した。
こうして「国」が誕生していくのである。

そうして安定してくると自然発生的に求められて生まれるのが、生活の必要最低限である「衣食住」から離れた、「娯楽」やタカラガイや金・銀・宝石などの「宝飾品」である。
「娯楽」は形には残らないが、「宝飾品」は形のある物である。
今までは生活に必要不可欠な「衣食住」のどれかとどれかを交換していたものが、今度は「衣食住」のどれか対「宝飾品」、或は「宝飾品」対「宝飾品」の交換が始まったのである。

この「宝飾品」こそが、「お金」という概念の最初である。
「金」が「お金」になるまで

2012年10月12日、こんなニュースが発表された。

地球の近くにダイヤモンドでできているとみられる星がある──米イェール大学とフランスの天体物理学研究機関が専門誌に論文を発表した。
その星は地球から40光年の距離にあるかに座55番星の惑星「かに座55e」。
半径は地球の2倍程度、質量は8倍という「スーパーアース」だ。
かなりの速度で主星のまわりを公転しており、この星の1年はたったの18時間。
星の表面は摂氏約2150度の高温になっており、人は住めそうもない。
この星の組成について、ありうる組み合わせの中から計算で導き出されたのは、この星が主に黒鉛とダイヤモンド(ほかに鉄やシリコンなど)でできているという結論だった。
少なくとも惑星の質量の3分の1はダイヤモンドでできており、これは地球3つ分に当たるという。
地球と同じような惑星に見えるからといって、今後は地球と同じ組成などを当てはめるわけにはいかなくなる──と研究者。
地球と似た大きさの惑星の形成についての新たな知見につながるとしている。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1210/12/news086.html

殆どの人が妄想するであろう。「地球3つ分のダイヤモンド!この星のダイヤモンドを地球に持ってきて売りさばけば、天文学的金額となり、一生遊んで暮らせるようになる。面倒くさい仕事もしなくて済む」なんてことを。

・・・と思いきや、そうはいかないのである。
地球上でダイヤモンドが高く売れる理由は、その輝きの美しさの故だが、もう一つの、そして最も大事な価値こそ、その「希少性」である。
「美しい」というだけでは価値は低い。
おそらく、ダイヤモンドが、砂浜の砂のように、砂利道の砂利のように、公園の砂場の砂のように、そこらへんに当たり前のように転がっていたら、誰も見向きもしないであろう。
この「希少性」にこそ、「価値」があるのである。

そしてこの「希少性」による「価値」がある物が「宝飾品」として用いられるのである。
もしダイヤモンドでできた星から莫大な量のダイヤモンドを地球に持ってきたとしたら、地球上にあるダイヤモンドの「希少性」が失われ、その「価値」は消滅することであろう。

さて、「お金」という概念を生んだ「宝飾品」は、前述したように、タカラガイや金・銀・宝石などが用いられた。
しかしながらタカラガイや宝石は「希少性」による「価値」はあったものの、いかんせん壊れやすかった。
ダイヤモンドは世界一硬い物質であることはよく知られている。
世界一硬い理由は、ダイヤモンドは炭素のみの結晶であり、原子の構造上、他の物質には無い特殊で強い結びつき方をしているからである。
しかし世界一硬いにもかかわらず衝撃に弱く、実はハンマーで叩くと簡単に破壊されてしまうのである。

いくら希少性による価値があったとしても、壊れてしまえば意味がない。

そこで重宝されたのが「金属」である。
金属には、たとえ壊れてしまったとしても、高温で溶かして再び作り直すことができるという便利さがある。
ちなみにダイヤモンドは、燃やしてしまうとただの「炭」になってしまう。

しかしそこで問題となるのは、金属の劣化や錆・酸化などによる変質・変色である。
この問題点を解決に導いた金属が発見された。
「金」「銀」である。
その中でも「金」が最も優秀であった。
何が優秀かというと、「壊れにくい」「錆びない」「変色しない」「加工しやすい」「美しい」といった金属としての特殊な性質、そして「希少性」がある。
こうして最終的に最も価値がある「宝飾品」こそ「金(GOLD)」ということになったのである。
この時に使われた「金」が、不変的な価値を有する「貨幣」となるのである。

どうもこれを書いていくにあたり、「お金」と「金」が読み手にとって混乱を招く恐れがあるので、次のように区別することとする。
「お金」=MONEY
「金」=GOLD
同じ「金」という字が使われているが、そのニュアンスは大きく異なるので、
MONEYは「お金」
GOLDは「金」
というように区別することとする。

日本語の奥ゆかしさを感じる。

お金が支配の道具となる
「金」が、国内の流通及び諸国との交易に使われるようになると、不純物を混ぜてはいないか、ちゃんと決まった重量があるのか、といった相互不信というものが生まれるようになった。
こんなときに「アルキメデスの法則」が誕生したのである。

商品と金貨幣を交換する際に、一回一回そのたびにアルキメデスの法則を用いるのもたいがい面倒である。
そこでその国のリーダーである「国王」が、その金貨幣の価値を保証するために刻印をするようになった。
それが「コイン」である。
逆説すると、刻印されていない貨幣には国王の保証がなく、実際には流通しているコインと同じ重量も純金だとしても、交換するための道具、つまり「通貨」としては使えなくなるのである。

「金」を国王に通貨として認める刻印を押してもらうために、国内にある「金」をすべて国王に預けなければならない。
この時、その国内にあるすべての「金」の所有者は「国王」となる。
その国にあるすべての金は国王の物となる。
そしてその国の国民は、国王から通貨を借りているという形になっていったのである。

こうして国王による支配がはじまるのである。

そしてやがて金を求めて「大航海時代」という立派な名前のもと、世界一有名な海賊団の船長であるコロンブスが中南米で大虐殺を行ったのである。
コイン(硬貨)からお札(紙幣)へ
金貨が市場に出回るようになると、必然的に「お金持ち」と「貧乏」とに分かれてくる。

お金持ち達は、貯めこんだ金貨が本物なのか偽造されていないか鑑定させるために金細工師に預けるようになる。
金細工師はいくつものお金持ちから鑑定を依頼されるため、頑丈な金庫を所有するようになる。
金細工師は鑑定料や保管料で生活していた。
金細工師は、金貨を預かる際に「いつ、いくら分の金貨を預かりました」という受領書を発行し、金貨を返す時にはその受領書を持ってきてもらうというシステムを作った。

お金持ちが何か物を買うときは、その受領書を持って金庫に行き、必要な金貨を下ろしてから買い物に行っていた。
少額の買い物であれば金貨数枚で済むであろうが、大きな買い物をするときは当然たくさんの金貨が必要である。
それに持ち歩いている金貨を強盗などにとられる危険もある。
そこでお金持ちは思った。
「少額の買い物をするときはまだしも、大きな買い物をするたびに重い金貨を持ち運ぶのはしんどいし危険だ。それに金庫まで行くのも面倒くさい。そうだ!この受領書で直接やり取りすれば済むことではないか!」と。

そしてこの受領書も小分けしてもらうようになった。
例えば10万円分の金貨を預けるとする。
このとき「10万円預かりました」という受領書1枚だけだと、少額の買い物をしたときにお釣りをもらえないなどの不便が生じることがある。
そこで1万円分の受領書を5枚、1000円分の受領書を30枚、100円分の受領書を200枚と、小分けして受け取れば、少額の買い物から多額の買い物まで非常に便利がいい。

ここでみなさんお気づきの通り、この受領書こそが紙幣の始まりなのである。
紙切れに価値が付加〜〜〜銀行のはじまりはじまり〜〜〜
こうして金庫にある金貨を眠らせたまま一切動かさずに、金貨の受領書つまり紙幣だけで買い物ができるという便利な世の中になっていった。

このとき大量の金貨を預かる金細工師は思った。
「紙幣だけで買い物ができるようになって、金庫に眠っている金貨が全く動かない。そうだ!いいこと考えた!この金庫に眠っている金貨を担保に、お金のない人に受領書(=紙幣)を発行して利子をもらっちゃえ!」と。

「人の褌で相撲を取る」とはまさにこのことである。
金庫に眠っている金貨は決して金細工師の所有物ではない、にもかかわらず、これを利用してお金儲けしていく仕組みを作り上げた。

金細工師が紙幣を発行するたびに、一定の割合の利子が入ってくる。

考え方としてはこうだ。
例えば部屋を貸し借りする。
部屋を借りている者は家主に家賃を払い、家主は住人から家賃をもらう。
レンタカーを借りるにも、その料金を払う。
要は「貸し賃」「借り賃」である。

同じように、お金を貸し借りする際も、借りる側は「借り賃」を払い、貸す側は「貸し賃」をもらう。
これが「利子」である。

そうして金細工師は利子を受け取り、どんどんどんどんお金を蓄えるようになっていった。
そして間もなく、金細工師が発行する「紙幣」こそが「通貨」へと変貌することとなっていくのである。

この「紙幣」を発行する機関こそが「銀行」のはじまりである。
紙幣発行権
こうして銀行が紙幣発行権を持つようになった。

紙幣発行権というのは、その実、大変なものである。

「紙幣発行権」という文字だけを見ると「紙幣を印刷して、お金に困っている人に配る」というイメージだが、とんでもない、その権力は絶大である。
例えば、紙幣発行元が「いま市中に出回っている紙幣はもう使えない」と一言宣言するだけで、その紙幣はその価値を失ってしまうのである。

よく考えてみてほしい。
「紙幣」といってもその実は「ただの紙切れ」である。
その「ただの紙切れ」に「価値」を付加しているのが「銀行」なのである。

つまり世の中のすべてが紙幣発行権を持つ者の言いなりとなってしまうのである。
この権力には国家でさえも逆らえなくなる。

「紙幣発行権」を持つということは、それほどの絶大な権力を手にするということなのである。
利子=信用
ここで「紙幣」とは何だったのかを思い出してほしい。

そもそも紙幣とは、金貨と交換できる受領書がその起源であった。
にもかかわらず、銀行は金庫に眠っている金貨以上に受領書を発行してしまっている。

受領書つまり紙幣は、その相手が「何月何日までにいくらの利子を付けて『必ず』返してくれる」という、相手のことを「信用」した上で発行するものである。
いくら何でも、どこの誰かもわからない素性のわからない者には紙幣は発行しない。

例えば、100万円を年利10%の利子をつけて貸し付けたとき、1年後には110万円となって返ってくる。
つまり10万円の儲けである。
ここで儲けた10万円というのは、貸した相手を「信用」した対価である。

そして、利子というのは、誰に対しても一定というわけではないし、貸すお金の上限も一定ではない
お金持ちや地位のある人、つまり「信用できる人」に対しては貸し出す金額の上限は高く設定できる。
これは返済能力が高いということである。
逆に貧乏人、つまり「信用できない人」には貸し出す金額の上限は低く設定される。
これは返済能力が低いからである。

さらに、信用できる人にたくさんお金を貸しても、間違いなく返ってくるのであれば、利子は低く設定できる。
逆にあまり信用できない人にはあまりお金を貸さず、利子も高くなる。

例えば、1年間で利子は10万円欲しい、という設定をしたとする。
そのとき、信用できる人に1000万円貸した場合は、1%の利子でよい。
信用できない人には100万円を貸して10%の利子をつける必要がある。

つまり、貸出金額の上限が高く、利子が「低い」ということは、「『あなた』を信用していますよ」、ということである。
逆に貸出金額の上限が低く、利子が「高い」ということは、「『あなた』をあまり信用していません」ということである。

この時の「あなた」というのは、個人であったり企業であったり、政府であったりする。
個人や企業であれば破産や倒産することもあり得る。
しかし相手が「政府」であればどうだろうか?

つまり貸す相手が個人や企業よりも、政府の方が「信用」できるのである。
最も信用できる貸出先である政府に貸し出した証書こそが、「国債」なのである。
信用膨張〜〜〜膨らんだ風船〜〜〜
1100万円の預金がある銀行が・・・
「信用できる相手」であるAさんに、1000万円を年率1%で貸したとする。
そうすると1年後には10万円増えて1010万円になって返ってくる。

また、「あまり信用できない相手」であるBさんに、100万円を年率10%で貸したとする。
そうすると1年後には同じく10万円増えて110万円になって返ってくる。

AさんとBさんを「信用」することによって得た対価は合計20万円の儲けとなる。
その銀行は1年後の資産は1120万円となる。

貸出金額の上限や利子の設定する基準は、今現在の状況がどうなのかを見る。
個人に対しては、「仕事をまじめにしているか」「土地や不動産などの資産は持っているか」などといった基準を適用する。
また、企業に対しては、「そこの企業の商品が売れているかどうか」などといったことが基準になるであろう。

しかし、もう一つの設定基準がある。
それは「その個人または企業が今後伸びていく『見込み』があるのかどうなのか」という、将来の展望である。
「見込み」があれば多くのお金を貸し出すし、「見込み」がなければ貸し出さない。
これを「投資」という。
斬新なアイディアを持った個人や、革新的な技術を持った企業には投資額が大きくなる。

そうして利子をつけて貸し出して銀行は儲けている。

または、個人や投資機関が企業に投資することもある。

そうなるとこのように考えるようになる。
「1年後にはAさんとBさんから受け取る利子で20万円儲けることになっているなら、今は手元に無いけど儲けているはずの20万円も10%の利子をつけてCさんに貸し出しちゃえ!(笑)」と。
さらには「20万円を10%の利子を付けたから2万円儲けることができる。その2万円も10%の利子をつけてDさんに貸し出しちゃえ(大笑)」となってくる。

今現在、1100万円の預金がある。
1年後には
貸した金額 利率 返済総額 銀行の利益
Aさん 1000万円 1% 1010万円 10万円
Bさん 100万円 10% 110万円 10万円
Cさん 20万円 10% 22万円 2万円
Dさん 2万円 10% 2万2千円 2千円
合計 1122万円 - 1144万2千円 22万2千円

実際には今現在1100万円しか持っていないはずなのに、4人に総額1122万円貸していることになる。
この差額の「22万円」は1年後に生まれてくるべきものであり、今現在には存在していない。
つまり今現在は「架空」の存在なのである。

これを何度も繰り返して、「信用」という利子が風船のように膨れ上がってくる。
これが「信用膨張」である。

「架空」の存在がどんどん増え続けるのである。
信用して預ける〜〜預金〜〜
今まではお金を貸し出す側について書いていたが、今度は逆に、銀行へ預金する側について考えてみよう。

預金額が多ければ多いほど、貸出可能額が増えるので、その銀行はより多くを儲けることができる。
だから銀行は「うちにたくさんお金を預けてください」と宣伝する。

もしここにA銀行・B銀行という2つの銀行があるとする。
A銀行に預けると、1年後には5%の利息を付けますよ。
B銀行に預けると、1年後には10%の利息を付けて返しますよ。
どちらの銀行に預けたいか?
A銀行に100万円預けたら、1年後には105万円になって返ってくるので、5万円の利益になる。
B銀行に100万円預けたら、1年後には110万円になって返ってくるので、10万円の利益になる。
預けるならば当然、B銀行と考える。

しかし、B銀行に預けることでより多くの利息が付いて返ってくるが、それなりのリスクもある。
利子で儲けた分を、預金者へより多くの利息で預金者に返さなければならない。

預金者への利息が高く付いて返すということは、たくさんの利子をつけて貸し出ししているということである。
たくさんの利子をつけて貸し出しているということは、返済されないというリスクが伴っているということである。

何処にいくら預金するかということも、しっかり見極めないといけない。
もっとも信用できる貸出先
先ほども述べたように、最も信用できる貸出先こそ「政府」である。
そして政府に貸し出したという借用書が「国債」というわけである。

銀行にとって最も信用できる貸出先が政府であるが、それは同時に、他の金融機関にとっても同じことである。
民間銀行と生命保険・損害保険だけで国債発行額の半数以上になる。
平成29年末時点の国債発行残高は1000兆円以上になる。
この半数以上が、つまり中央銀行・民間銀行・保険会社・証券会社などが持っているのである。

その民間銀行や保険会社へは誰がお金を預けているのか?

巡り巡って、我々が、直接・間接的に国債を保有しているということである。
だから、銀行は確実に利息を払ってくれているし、何かあったときに安い掛け金でかけている保険会社が高い保険料を払ってくれているのである。
膨らんだ風船が破裂するとき
ここで少しばかり思いめぐらしてみてほしい。

利子というのは、何かの「物」に交換できるものではない。
「信用」という見ることのできない物、手に触れることができない物である。
万が一、何らかの特殊事情が発生して、借主が借金を返せなくなったとき、一体どうなるのか?
個人や企業が相手であれば、銀行によって法的に取り立て・資産没収・給与差し押さえなどという手段がとられる。

では貸出先が政府だったらどうなるだろうか?

どの個人よりも企業よりも確実に、どんな特殊事情が発生しようとも、何があっても絶対に返してくれるということを「信用」した上で、金融機関は政府にお金を貸し出し、また政府も必ず返すと約束して国債を発行する。
この国債の利子を「あて」にして、金融機関は資金を運用している。

ここでもし何らかの社会的動乱が発生し、企業の運営資金が足りなくなった時、企業は銀行などの金融機関に融資を申し込む必要に迫られる。
それが1社2社であれば金融機関は賄うことができるであろうが、そういった企業が増えれば増えるほど、貸し出す側である金融機関も苦しくなってくる。
もし金融機関が「貸し出すお金がありません」となったとき、運営資金が足りなくなった企業は終わりである。

銀行は預金者から預かったお金を相手に貸し出した利子で運営している。
もし預金者が「銀行の貸出先が返済できなくなってしまうのではないか」と疑心暗鬼になると、預け先の銀行が預金不足になる前に預金を引き出しておこう、という動きを見せるようになる。

企業は運転資金がない。
銀行は預金がない。
預金者は次々と預金を引き出しに来る。
そうすると銀行は破綻する。
その銀行に頼っていた企業も倒産する。
こうして連鎖的に次々と倒産し、失業者は街にあふれかえるようになる。

これは「もし特殊事情が発生したら」という想定したうえで書いている・・・

のではない。
実際に発生した事実である。
1929年の世界大恐慌である。

そもそも、銀行も企業も個人も、自分の資産の何倍にも膨らんだ、相手を「信用」していますという対価である「利子」で現在の経済は成り立っている。
もし現在の経済に何らかの特殊事情が発生すれば、全世界を巻き込んだ大打撃を受けることとなる。
その時、風船のように膨張した「信用」が一気に破裂する。
金兌換紙幣から不換紙幣へ
そもそも「お金」とは、その実はただの紙切れである。

成金が明かりを灯すためにしか利用価値はない。
お腹がすいたからといってお金を食べても満たされることはない。
のどが渇いたからといってお金を飲んでものどに詰まるだけだ。
病気になったときに、お金を煎じて服用しても病気は治らない。
魔法の絨毯のようにお金に乗って目的地に行くこともできない。
雨が降ってもお金ではしのげない。

紙幣の起源をもう一度思い出してみてほしい。

その起源は金に交換できる借用書である。
その借用書には金に交換できるという裏付けがある。
これを「金兌換券」という。

ところが信用膨張により、所有する「金」以上の「お金」がこの世の中に出回ってしまっている。
こうして「金に交換できる」という裏付けが失われてしまった。

そもそものきっかけは、アメリカによるベトナム戦争の戦費や、東西冷戦時代にソ連に対抗して軍事費を増強したことによる大量出費だと言われている。
そして1971年、アメリカはとうとう「紙幣は金に交換できない」と宣言したのである。
これを「ニクソンショック」という。

これによって紙幣は金と交換できるという裏付けは完全に失われた。
これを「不換紙幣」という。
紙幣は「金兌換紙幣」から「不換紙幣」へと大きく変貌したのであった。

ニクソンショックによって金への交換ができなくなったのではない。
ニクソンショックによってそれが表面化されたにすぎない。

こうして事実上、紙幣がただの紙切れとなったのである。
現在の紙幣の裏付け
金兌換紙幣から不換紙幣に大変貌したことによって、紙幣が「金」へ交換できるという裏付けを失った。

しかしながら未だに紙幣には「物」に交換できるという力がある。
小さなこどもが発行する「肩たたき券」にも、その券には「肩をたたいてくれる」という力が備わっている。
しかしいくら優しい小さな子供でも、祖父母や両親に対してできることにはさすがに限界がある。
足腰が弱ったおばあちゃんを病院まで背負って運ぶことはできないであろう。

未だに「モノ」に交換できる紙幣が持つ力の裏付けとは一体何なのか。

先述したように、銀行が個人や企業などに貸したお金は、破産や倒産によって返ってこない可能性もある。
しかし政府に貸したお金が返ってこない可能性はゼロである。
(実際にはゼロではない、ゼロであると思い込まされているのであるが・・・)

現代経済はお金を貸した際の「利子」によって成り立っている。
アパートの一部屋を借りるときは家賃を払う。
しかしいくら家賃を払い続けていようとも、その一部屋は自分の物にならない。
部屋を貸す際に家賃を取るのと同じように、お金を貸す際に利子をつける。
至極当然である。

そのアパートの入居者が個人ならば、もし家賃が払えなくなってしまったら夜逃げされるかもしれない。
しかしその入居者が「政府」ならば、夜逃げされる心配はまずない。
それほど「政府」への貸し出しによる「国債」というのは信用度が高い。

つまり、現在の紙幣が持つ力というのは、「国債の利子」という裏付けによるものなのである。
お金がお金を生む〜〜金融工学〜〜
お金を得るためには何をしなければならないか?
当たり前のことであるが、仕事して汗水流して「労働」しなければならない・・・。

と思っているのは「労働者」だけである。

持っている土地を貸すことで得る「地代」や、投資によって得る収入で生計を立てるいわゆる「不労所得者」もいる。
理屈っぽい者は「土地を管理するという労働だ」「投資という労働だ」というだろうが、ここでは「不労」ということとする。

心情としては、「働かずに(不労で)、楽して、大金を、儲けることができたらいいなぁ」と思う人が多いと思う。

この「不労」でお金儲けする方法が「金融工学」である。
金融工学の専門家からすれば、「金融工学を駆使することも労働だ」というだろう。
確かにそうであるが、ここでは「金融工学」をあえて「楽してお金儲けする方法」とする。
金融工学を駆使したサブプライムローンとは何だったのか?
頭脳集団が金融工学を駆使してお金儲けする方法を編み出した。
その一つが「サブプライムローン」であった。

この「サブプライムローン」とは一体何だったのか?
簡単に言うと、低所得者(サブプライム)への高額な貸し出し、である。
低所得者へ貸出するのは、返済不能になるリスクが高い。
それでも低所得者へどんどん貸し出したのは、住宅価格の上昇という背景があった。
いわゆる「住宅バブル」である。
もし債務者(借主)が返済不能になったとしても、住宅を取り上げて転用すれば、貸したお金は戻ってくる。
また、借主は定期的に返済しつつ、もし残金よりも住宅価格が高くなれば、その時に住宅を売ってしまえばいい。
そうして住宅価格が上昇し続けると「信用」して、低所得者にもお金をどんどん貸し出し、低所得者もどんどんお金を借りた。

当然、貸し出すお金に利子をつける。
この利子でお金儲けする、これが「金融工学」を駆使した施策である。

例えば、1000万円の家を購入するために、利子を含めて1000万円とその利子である500万円の合わせて1500万円を借りたとする。
この1500万円を10年で返済すると契約したとする。
住宅価格は今後必ず上昇する。
やがてこの家が2000万円で売れるようになる。
だから「1500万円借金しても、500万円儲かるよ」と言われて(騙されて)、サブプライムにお金を貸し出す。

1000人にまったく同じ額・利率で貸し出したとする。
そうすると100億円を貸し出し、10年後には50億円儲かるという計算である。

この架空の儲けである50億円と、元本である100億円を合わせた150億円を運用するのである。

貸し出す側が持っているモノを「債権」という。
つまりお金を返してもらう「権利」である。
これに対して、借主は「債務」という、お金を返さなければいけない「義務」を背負うこととなる。
この150億円を1か所にまとめて貸し出すわけではない。
買い求めやすく分割するのである。
こうして「債権」を「証券」に変えて世界中にばらまいたのである。

ところがある日突然、「住宅バブル」の崩壊が起こったのである。
住宅価格が下落したのである。
冷静に考えれば、「住宅バブル」が崩壊するなんて当たり前のことである。

需要があれば価格が上昇するが、供給過多になれば価格は下落するのは当然である。

こうして債務者は破産し、債権者は大損。
世界中にばらまかれた「証券」はただの紙切れとなった。
その証券を買い集めた証券会社や投資家は大打撃を受けたのである。

低所得者(サブプライム)に貸し出す時、しっかりと審査したうえで貸し出せばよかったではないかと批判されそうだが、そもそも債券そのものを売り払ってしまうので、貸出側としては債務者が返済しようが破綻しようが関係ないのである。

もっとわかりやすく説明すると・・・
A銀行はBさんに1000万円貸すとする。
Bさんは「10年後に1500万円にして返します」という借用書をA銀行に渡す。
この「借用書」がすなわち「証券」である。

このとき、借用書は「10年後には1500万円の価値があるもの」となる。
A銀行が持っているこの借用書を今度はC証券会社に1100万円で売る。
A銀行は1000万円貸して、その借用書を1100万円で売ったので、100万円の利益となる。
C証券会社は1100万円で買った借用書が10年後には1500万円になるのであるから、400万円の利益になる「見込み(予定)」である。

A銀行としては、100万円の利益は「確定」したのであるから、債務者が返済しようが破産しようが、A銀行にとっては知ったこっちゃない。
つまり貸した者勝ちである。

次に、C証券会社はBさんの借用書を細かく分割する。
1500万円の価値のある借用書を100分割すれば、1枚が(10年後には)15万円の価値となる。
100分割したうちの1枚を12万円で売る。
それを100枚売れば、1200万円になる。
1100万円で買った借用書を1200万円で売ったので、C証券会社の利益は100万円となる。

しかも分割した借用書を単体でばらまくのではない。
今後伸びるであろうD社の株にサブプライムローンの債権を混ぜて一つの証券として売りさばく。
例えば、今現在のD社の株は1万円だけど、10年後には5万円の値が付きますよ、と。
10年後には5万円の値が付くD社の株を2万円で、10年後には15万円になる分割した借用書を12万円で、合わせて10年後には20万円になる株と借用書を14万円で売りますよ、と。

なるべくわかりやすく丁寧に説明したつもりだが、理解できましたか?

何??
言っていることがわかりにくい??
理解できない??

そのような、誰もその証券の本質が何かということが理解できない不可解なモノが市場に出回ったのである。

こうして世界中の投資家が、自分の持っている証券に不安を感じ、「買い」から「売り」転じ、一気に株価下落が起こったのである。
基本的に、「欲しい」から「買う」のであり、「いらない」から「売る」のである。

さらには、手元にある証券をレバレッジして、さらに多くを儲けようとした投資家を壊滅させた。
レバレッジとは、少ない証拠金で多額の資金を運用することである。
例えば100万円の証拠金を入れて、10倍のレバレッジをかければ1000万円を借りることができ、これを運用してさらに莫大な利益を得ることができるようになる。
しかし100万円しかないのに1000万円を運用して、もし運用に失敗すれば多額の借金を抱えることになる。

アメリカの大投資会社が次々と倒産することとなった。
その最たるものが「リーマンブラザーズの破綻」いわゆる「リーマンショック」であった。
リーマンショックの原因とその影響
リーマンブラザーズのようなアメリカの大投資会社が次々と破綻していくと、「米ドルは大丈夫なのか?」という不安が生まれる。
こうしてアメリカドルの信用が失われるようになると、国際的に信用があった「日本円」がたくさん買われるようになってきた。
日本円の価値が高まってきたのである。
そうすると、資源のない日本=輸出に頼っている日本は、日本円は高い=日本製品は高いということとなり、日本の産業は大打撃を受けることとなる。

そうしてしばらく日本経済の不況が続いたのであった。
じゃぶじゃぶ金融
こうした日本経済の低迷を打開するためには何をすればいいのか?
そもそもの原因は、円高による産業の輸出不振である。
輸出不振によって企業の株価は下落していく。

では、円高から円安に移行させればいい。
円高というのは、「円」の価値が高いということである。
では円安にするにはどうしたらいいか?
円の価値を下げることである。

前述したように、「価値」とは「希少性」である。
限られた数量しかなければ、それを取り合うために、漁獲量の少ない魚(希少性の高い魚)をより高い金額を提示した魚屋さんに卸す「競り」のように、「円」も競り合うように高くなってくる。
逆にイワシやサバやアジのような漁獲量の多い魚(希少性の低い魚)の価格が安くなるように、「円」を刷って刷って刷りまくれば、「円」の価値が下がって「円安」に移行される。

こうして円高不況が打開されたのである。
今後の見通し
円安に移行し、株価が上昇していることは周知の事実である。
そして市場にお金が出回り、景気が回復してきた。

ではこれからずっと景気が良くなり続けるのか、というとそうではない。

歴史を見ればわかるように、景気は良い時と悪い時が繰り返されている。
だから、今は景気が良くなっているが、いずれまた景気が悪くなる時も来るだろう、と予測して前以て対策を練っておくことは大事なことである。

しかし、ここに誰も気づいていない重大な落とし穴があるのである。

それは何か?
リーマンショックの時はFRBがドルを刷って刷って刷りまくった。
この影響により日本が打撃を受けたときは日銀が円を刷って刷って刷りまくった。
こうしてアメリカも日本も危機を乗り越えることができた。
つまり政府が助けてくれた。

しかしこれからは政府が助けることができない状況になっているのである。

政府の収入とは何か?
税金と国債(借金)である。
厳密には国債は収入とは言わないが・・・
個人において、借金を収入と言わないだろう。

前述したように、最も信用できる貸出先である「政府」への貸出証書である「国債」の利子によって経済が成り立っている。
この「国債」の利子はどうやって払うのか?
これが「税金」である。

もし国民が「これ以上税金を払えない」ということになってしまうとどうなるのか?
国家破産である。

これを言うと「国家破産など絶対に起きない」という、いかにももっともらしい論述が世間の書籍にもネット上にも蔓延している。

その根拠となっているのが、国債残高が1000兆円の借金があっても、その保有者の9割以上が日本国内にあるからだという。
それに加え、一説によると、日本の国民総資産が8000兆円以上あるから、国家破産など絶対に起きない、というものである。
だから「『国家破産』などと言う者は馬鹿だ!」と断じている者もいる。

確かに、この「数字」だけをみれば安心である。

だが敢えて言わせてもらう。
無責任者よ!
「『国家破産』などと言う者は馬鹿だ!」と断じている者こそ「馬鹿」だ!と。

100万円の株を持っているなら、当然ながら資産は100万円である。
しかしその100万円はずっと100万円なのか?
現在は1億円だが、10年後に1億1000万円になるという証券は、必ず10年後に1億1000万円になっているか?
今持っている土地の資産は今後変動しないのか?

こういうと、多少の変動はあれども大きな変動はない、という。

この馬鹿者はお金は絶対的普遍的価値を有するありがたいもの、と考えている。

最初から読み直してほしい。
お金とはそもそも紙切れであり、金属の塊でしかない。
その紙切れ・金属の塊に「価値」が備わっているにすぎない。

もし一時に世界情勢に大きな変動があれば、一気にお金の持つ「価値」は消滅する。

食えるか食えないか、という状況におかれたとき、「お金」に何の価値もなくなる。

これが、ほんのすぐ先の未来に待っている現実である。
どうすれば・・・
2018.2.17