日韓併合までの流れ
日韓併合までの流れ

それは欧米の大航海時代から始まった。

巨大帆船で世界中を航海し、コロンブスやマゼラン、バスコダガマ等によって新航路発見や新大陸発見などがあった。

参照
歴史

新たに発見した土地を植民地化し、彼らによる支配は世界を二分する勢いであった。

黒人奴隷貿易が始まったのもこのころからである。

さらに産業革命によってますます強大な力をつけた欧米列強によって、植民地支配が全世界に及んだ。

こうしてアフリカや南米大陸はあっという間にその土地を彼らに奪われてしまった。

インカやアステカといった高度に発展した中南米の文明が滅ぼされたのも、彼らによるものである。

彼らは十字架と鉄砲を手に、原住民を脅し、屈すれば奴隷にされ、反抗すれば殺戮されていった。

そして欧米列強はアフリカや中南米の植民地支配には飽き足らず、アジア各国にまで手を伸ばしてきた。

力がなかった東南アジアは次々と植民地化され、やがて中国大陸、そして日本までも植民地化を狙いだした。

欧米列強の最終目的地は「日本」である。

それは、マルコポーロの「東方見聞録」に記されている「黄金の国・ジパング」に影響されたものであった。

この日本に狙いを定めた欧米列強は、その足掛かりとして、中国大陸の植民地化を推進した。

ここで、一歩出遅れていたロシアが、中国大陸への進出を狙う欧米列強に待ったをかける動きを見せ始めた。

ロシアの持つ海岸線のほとんどが北極海に面しており、1年のほとんどが凍ってしまうという、海洋進出が困難な地理的条件であった。

海軍力を強化し、海洋進出するためには、一年中凍らない港、いわゆる「不凍港」の確保が絶対であった。

そこでロシアは不凍港を求めて南下を始めた。

ロシアが目を付けたのが「朝鮮半島」である。

当時の朝鮮は中国(清)の属国であり、文明と呼べるものが何もないほど荒廃していた土地であった。

ロシアが本気で朝鮮半島への侵略を始めたならば、一瞬にして朝鮮半島はロシアに陥落させられる。

朝鮮半島がロシアの手に渡り、ロシアの念願であった不凍港が建設され、当時無敵と言われていたバルチック艦隊の母港となれば、いよいよ日本の存続が危ぶまれることになる。

そこで日本は朝鮮の宗主国である清国(当時の中国)に交渉した。

「朝鮮半島をしっかり立て直してくれ。それができなければ独立させよ」と。

アヘン戦争でイギリスにボッコボコにされた清国には、すでに朝鮮半島を管理・立て直す力も意思もなかった。

かといって、朝鮮半島を独立させる気もなかった。

「このままではロシアの南下が現実となる。これを抑えるための清国との交渉も決裂した。こうなれば最終手段に出るしかない」

こうして眠れる獅子・清国との戦争が開始された。

いわゆる「日清戦争」である。

参照【清国ニ対スル宣戦ノ詔勅(しんこくにたいするせんせんのしょうちょく)】

この日清戦争に勝利した日本は、朝鮮半島の清国からの独立を認めさせることができた。

荒廃しきっていた朝鮮半島を独立国として自立させ、力をつけさせるために、日本は惜しみない援助を行った。

インフラ・教育・農業等、朝鮮半島へのその援助は当時の日本の国家予算を上回るほどであった。

こうして朝鮮半島は少しずつであるが力をつけ始めた。

しかしロシアは不凍港獲得に向けて、南下の手を緩めなかった。

独立した朝鮮半島を日本から奪うために、ロシアの兵力を南進させた。

もう日本はロシアと直接対決するしかなくなってしまった。

こうしていわゆる「日露戦争」が開始されたのであった。

この日露戦争にも勝利した日本は、もう二度とロシアに南下させまいと、さらに朝鮮半島への援助を強化した。

その強化に向けて日本は朝鮮総監府を配置し、その初代総監に、日本の初代総理大臣であった伊藤博文を任命した。

伊藤博文は、朝鮮半島の自主独立と国力強化のための監視であり、あくまでも、「朝鮮国」に対する日本の援助として任命されたものである。

しかし、ここで日本と朝鮮に修復不可能なほどの重大事件が起こる。

それが「安重根による伊藤博文暗殺事件」である。

朝鮮がここまで力をつけることができたのは日本のおかげであるにもかかわらず、安重根は「朝鮮の日本からの解放」を旗印に、朝鮮の支配者と思い込んでいた伊藤博文を暗殺してしまったのである。

伊藤博文は、あくまでも朝鮮は独立国で、日本はその援助を行っているのであり、朝鮮を植民地化するようなことは全く考えていなかったのであった。

にもかかわらず、安重根というテロリストが大事件を起こしてしまった。

ここで朝鮮は震えあがってしまった。

朝鮮の独立の恩人であり、ここまで力をつけてくれた功労者であり、清国・ロシアに打ち勝った軍事強国・日本の、しかも元老院という日本の天皇陛下に次ぐ立場の人物を暗殺してしまったのである。

伊藤博文暗殺に対する対等の謝罪のすべを持たない朝鮮は、もう成す術がなくなってしまった。

そこで朝鮮は最終手段に出た。

「朝鮮を日本に譲ります。これで何とかしてください」と。

こうして日韓併合となるのである。

日韓併合とは「朝鮮半島の権益を巡る日清戦争および日露戦争の後、1910年(明治43年)8月29日、「韓国併合ニ関スル条約」に基づいて大日本帝国(日本)が大韓帝国を併合して統治下に置いた事実」を指す。
韓国併合 - Wikipedia

年代表記や細かい事象をあげていけば、今ここではきりがないので、大雑把に「日韓併合」までの流れを記してみた。

そして1945年、日本の敗戦により、朝鮮は日本の手から離れることとなる。

「日本」という後ろ盾を失った朝鮮は大混乱となった。

この混乱に乗じて、ソ連・中国が、金日成を傀儡として朝鮮半島に攻め込んできた。

これを阻止しようとしてアメリカを筆頭とする国連軍が派兵。

これが1950年6月25日に始まった「朝鮮戦争」である。

3年間にわたって朝鮮半島を戦場と化し、荒廃させたのち、1953年7月27日に国連軍と中朝連合軍は朝鮮戦争休戦協定に署名し休戦に至った。

この協定はあくまでも「休戦」であり、「終戦」ではない。

以降、現在に至るまで南北朝鮮は、休戦状態ではあるが、戦争が継続したままである。

そして今は、北緯38度線を境に、北側にはソ連・中国をはじめとする共産主義と、南側にはアメリカを中心とする自由主義が対峙している状態である。

これに便乗した南朝鮮(韓国)は、「韓国はアメリカの一部だ→韓国は戦勝国だ→敗戦国である日本は戦勝国である韓国に戦争賠償金を払え」と、今までと全く逆の主張をし出した。

日韓併合期間中は、日本人も朝鮮人も分け隔てなく、「日本国民」として扱っていた。

この姿勢は、欧米列強による非植民地支配民に対する姿勢とは全く異なるものであった。

【参照】プランテーション

駄々をこねる子供を、お菓子を与えて黙らせるように、仕方なく、1965年、日本と韓国は「日韓基本条約」を締結し、さらにこれに付随した「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」を結んだ。

その内容を簡単に説明すると、大きく分けて3つ。
@これまで朝鮮に投資してきたインフラ・学校等の公共施設・ダムなどなど、すべての日本の資産を放棄する。
Aさらに莫大な賠償金を支払う。
・3億ドル相当の日本国の生産物及び日本人の役務 無償(1965年)(当時1ドル=約360円)
・2億ドル相当の日本国の生産物及び日本人の役務 有償(1965年)
・3億ドル以上 民間借款(1965年)
Bこれにてすべて清算したものとする。

こうして韓国は完全に日本から離れ、自主独立へと進んでいくこととなった。

はずであった。

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